カウンセラーのひとりごと

これまでに書き溜めた記事を毎日1つずつ、載せて行きたいと思います。

47. カウンセリングの現場から

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カウンセリングの現場から

残念ながら、自己受容できていないカウンセラーは山ほどいるけど、 本来、自己受容者であるべきカウンセラーでなければ、 クライエントを自己受容に導ける筈はない。 自分を受容しているカウンセラーには、絶対的安心感と絶対的安定感がある。

それは、上手くやる自信を持っているということではなく、 どんな状態、好癖、性癖、個性などに対しても批判や評価がなく、 どんな話を聞いてもブレずにただ認められること。 甘えさすことや、まして依存させることでもなく、愛だの慈悲だのとも違い、 怒り、憎しみ、殺意など表現されても、カウンセラー側が毅然とその話に 敬意を持って向き合えること。

お客さんたちは、それがあって初めて安心して語れるのです。 上っ面の相づちなんかじゃ太刀打ちできない。 生の生きた話に本気で耳を傾けられるかどうか。 先ずは、受容されることの醍醐味を味わってもらうことから始まるのです。 これって、カウンセリングの導入の部分でしかないのだけれど、 上っ面で上から目線なカウンセラーが多すぎるのも事実。

精神科医を初め医者全般がそうだけど、 それじゃあ対話のテーブルに着ける筈なんかない。 日本の、心理・精神界のレベルが上がっていかない訳ですよ。 カウンセリングって、カウンセラーとクライエントとがお互い生身の人間として、 奥深くに巣くう人間の性(さが)と、その個性について、 忌憚なく語り合えることだと思うのです。

ただシンプルに、ただストレートに自分を語り、そして知る。 自分がこの世界に生きているという妙味を感じる対話だと思うのです。

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46. カウンセリングで見えてくるもの

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カウンセリングで見えてくるもの

お客さん達と話していて思うのは、話や訴えに筋が通っているということです。なんだけど、それについて長いこと確信が持てず、その為に、 自分以外の他者の眼を自発的に気にしてきたように思うのです。

筋というのは、話が道理にあっていること。しかし世間の次元では、筋よりもタテマエや空気の読み合いが重んじられることも多く、時に不可思議で胡散臭い大人の世界に立ち尽くすのみになってしまうのことがあります。

順序よく混乱を解き、自己否定と思い込みを外して紐解き、自分が引っ掛かかっていたものが解れば解るほど、そこに見えてくる自分の根本的な悩みの原因が、『世間は自分が納得できるほど筋の通ったものではない』ということを浮かび上がらせることもあるのです。

苦しみの原因は、その世間に自分が迎合しようとしてきたことであり、迎合できない自分は社会不適応者としてこの世界から弾かれてしまうのではないかという恐れ。

しかし実際は、迎合しようとすればするほどに出来ない自分を感じながら、自分を裁きつつも動けず苦しんでしまった。

そもそも人間は、自分が納得するようにしか生きれないし、そうでしか落ち着けない。 そうでないとそれだけストレスがかかり、息苦しさや違和感を覚え、或いは何らかの身体的症状が現れたり鬱になったりする。

世間に適応しようとして病気になる。 しかしこれがまさしく人間らしい反応の証拠であり、完璧な人間なんだということでもある。そして完璧な人間だからこそ、恨んだり憎んだり、イラついたり悲しんだりする。 そして執着する。

執着の心は決して楽なもんじゃない。でもそこには確かに生きる執念のようなものがある。だからこそ、その執着の真意を読み解き、感じきること。

例えば、憎い相手を許したければ、その前に徹底的に憎まなければ許せない。 黙って許せるほど人間は善人じゃないよ。

赦す為に憎むんじゃなくて自分の為に憎むんだ。これは難しいけども。そして復讐は別の話。

話戻して、カウンセリングでは、今まで気になっていたもの全てを、ひたすら忠実に知っていきます。 自分の納得できるものは、ただ真実でしかないのですから。

主体性の回復とおまけ

お客さんの中には、霊感や霊が見えたり、そういう特殊能力を持つ方がいらっしゃいます。 ところがカウンセリングが進み自分中心の主体的な行動へと変化していくと、その能力が薄れていくことがあります。

中にはその能力を自分仕様に使い出す方もいますが、多くは、霊に対して自ら断れたり主張したりできることで、霊が離れていったり放っておけるようになっていかれるようです。

つまり、主体性が回復されると、自分の意思で行動することに不安や罪悪を感じにくくなるので、好まないものには振り回されなくなるのです。

また、お客さんの中には、詩や絵画や音楽などの アーチスト系資質に長けている方も多いです。しかし、落ち込んだり深みに嵌っているときに作られていた作品などは、カウンセリングが進行していく中で、書けなくなったり作れなくなることもあります。

主体性が回復され、自分が深く煮詰まらなくなるので、その代償に出来ていたものはなくなり、芸風や作風が変化していくのです。

自分中心の世界観で世の中が回り、自分の歯車が大きく回りだす。能力の有無や善し悪しはともかく、一人の人間として特別な一人になるのです。

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45. 事実を知っていく

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事実を知っていく

通常カウンセリングの原則は受容と共感だと言われる。 そりゃ最もなことです。 だけど、「それが気になってるんだね、心配だね」と受容し 不安を受け止めたところで何も変わりはしない。カウンセリングは「本当のことを明らかにしていく」これが必須です。

ですから、不安や恐怖をただ事実として、その中に自分が入れるかどうか。自分の前に立ち、不利なことを否認したり自分自身をも誤魔化してきた段階から過ぎて、言ってみれば、自分から逃げなくていいんだと気づき始めること。

今までなら、親や恋人に対して、「自分は愛されているのか?」という疑念から逃れるために「自分が悪いから辛い目に合わされる」と思い込み、相手の本心から目をそむけ、自分さえ変われば、もっと自分を愛してくれると思ってきた。

しかし、「親(彼)も苦しいんだ」「自分のためにしてるんだ」くらいな誤魔化しは出来ても、根本的な「自分は愛されているのか?」の不安は消えず、渇望が見捨てられ不安となっていく。

こういう積み重ねでは、疑念を無意識に追いやり、「本当のことは聞かない」という認知パターンを作り上げ、自分を押し込めてしまう。 相手の態度や表情などの不確かな情報を推し量り、相手の喜びに貢献しそこに自分を重ね、究極のファンタジーを作り上げたのです。

親が子供に関心などなく、感情のはけ口や八つ当たりをしていたなど、受け入れられる筈はないですからね。

しかし、相手から必要とされることの必要性の獲得に必死になるも、本当に欲しいものはそこにない。だもの埋まる筈はありません。こうして誰に対しても同じようなパターンで対応することになるのです。

頭での整理

事実を知っていくには、当時の事実関係を現在の自分の頭で整理し直すこと。自分が悪いんだという「思い込み」と「自分の問題と人の問題の区別」がつくと、当時の場面場面での認知のズレに気づかされ、事実とそれに付随する気持ちが湧き上がってきます。

事実は頭で理解し、その時々の感情を吐き出しながら認知を正すのです。愛されることを必要とされることにすり替え、その為に行動する。そして、必要とされたくてやっていた自分の行動が、実は、相手こそ必要とされたくて自分に仕掛けられていたということも理解できるようになります。

人は人に必要とされたいし、誰かの必要でありたい。それは何も悪くないですよ。しかしこの場合、自分の必要性の為に「利用」し、相手からも「利用」されていることに気づいていない。そこに問題が生じる。

このような、愛されているのか?という疑念でなくとも、親の価値観の押し付けや刷り込みが日常無意識的に行なわれると、自分の認知や言動に自信をなくし息苦しくなることはあります。

この辺りまでの流れは、AC(アダルトチルドレン)の概念を使って当てはめても解りやすいのではないかと思います。つまり、頭で認知を正しく理解することで客観的に捉えられ、事実は事実ということと、私は私ということが納得しやすくなります。

そうしていよいよ準備が整うごとに、奥に控えていた自分が顔を出し始めます。

「なぜ自分は、そのような選択をしたのだろうか?」 ここからがカウンセリングの心髄。自分の心との対話です。

心の対話

いよいよ自分と向き合う段階では、自分の感覚が一切の主導権を握り、頭の会話より心の会話へと重点が移っていきます。

自分だって、やすやすと親や誰かの言う通りにしたかった訳じゃなく、そこでは相当な怒りやら強烈な嫉妬や憎悪が渦巻いていたり、意地や欲もある。 時には思い出したくもないイヤ~な感覚をも体感していく訳ですから、頭を使っているうちはおっかなくて出来ない。 生の反応に批判のないことが、安心して感覚に委ねることを許していきます。

先に書いた「感じなおし」や「自分を見つめる」という作業に繋がります。

人間、子供であろうと、その時の自分がその状況下でちゃんと決断してきています。自分の判断をしています。 仕方なくではなく、自分の為の意味・理由によって、行動を選択しています。 自分が自分を知るということは、自分の中に潜む自分の本質に触れ、深く理解し納得できること。そうする毎に、自分が自分と共にいるということだけで安心して生きれるのです。

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44. 理解について

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理解について

人との会話ややりとりをしていく時、双方の理解に食い違いが生じることがありますね。ここでは「理解」していくとはどういうことなのかを改めて書いてみます。

理解するということは腑に落とすということです

どの会話も、自分がしっくりこない腑に落ちないことは納得できませんね。会社で、上司の命令に心から頷けないと遂行しがたく、不満・不全感は付随するでしょう。自分がいつも不安だったり何かに怯えていたとして、それを人からどう説得どう慰められても、自分が心からそうだよなと感じられなければ、不安は解消されません。 自分が気になっていることを気のせいだと言われても 消えることはありません。

分かり易い例を挙げてみます。心療内科で鬱と診断され投薬されたとする。 鬱は、心や気持ちの苦しさが溢れ出し、身体的症状として表れているもので、投薬で身体的症状が落ち着くことはある。

しかし、医者から鬱という病気の説明をされ鬱の理解ができても、肝心の心や気持ちに対して、どこがどういう風になってしまったか、その人にあわせた説明がなかったり、ピンとくるような腑に落ちる感覚を味わえなければ落ち着いてこない。いつまでたっても、もやもや感が消えず根本解決には至れない。

症状というものは、惹き起こしたきっかけやそれまでの人生をじっくり振り返り、あくまでも自分にとって心から腑に落ち、心から納得して初めて消えるものです。不自然さが取れ、自然に流れると必要なくなるので、消えてくるということです。だから鬱を辿るには、しっくりしない感じや、もやもや、または恐怖感とか漠然とした不安感などが大切な目安なんです。

鬱でなくても、身体症状がなくても、しっくりこない事しっくりこない会話の場合も同じことです。 どうしても腑に落ちないこと、疑いもなく信じているようでも、なんとな~くしっくりこない感じを抱いているならその感覚に耳を澄ませることです。

心の底から、体の中から「ん?」と反応したり、「うん、そうそう」と頷ける、そういうサインが出る方向が理解への道。 自分を理解するのには、思考的理解より感覚的理解が重要です。 そう、考えるより感じろ! 本来なら、誰でもが出来得ることなんですよ。

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43. 過去を過去にする

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過去を過去にする

今の苦しさの基を探っていく時、過去の済んでいない想いを、きちんと済ませる必要が出てきます。カウンセリングでは、「気持ちを吐き出すこと」や「感覚を感じなおすこと」をしながら過去を過去にしていきます。ここではそれについて書いていきます。

①吐き出すこと

過去を思い出して、あぁ悲しかった、ひどいな、寂しい、許せないなどの 感情に気づいてくると、当然それを出したくなります。 その気持ち・感情を、どんどん出していくのが吐き出しです。

例えば、親に我慢してきた方には、その抑えていた感情があるでしょう。 あの時はこうだった、こう感じていたのだけれど解ってもらえなかった、これが嫌だった、苦しかったなど、その時にはよく解らなかったことや、我慢していた事、伝わらなかった悲しみなど 押さえ込んでいた感情を、改めて出すことが吐き出し。感じていたことを、ただ、素直に自然に任せ出すということです。

これは、どちらかと言うと、脳の記憶を元に思い出される感情を話していくこと。これをやっていくと、溜まっていたものが出るのですっきりしますし、 楽になっていきます。 これは、お1人でも、誰かに聞いてもらってもできることです。

②感じなおすこと

一方、感じなおすというのは、引っかかりやその時の気持ち、その時の自分の感覚をもう一度振り返り再度感じれることです。 これは、心の奥で感じていたであろう感覚を辿ることで、これをやっていくと、その時の自分のまんまの感覚が カチっとはまる瞬間に出会うことができます。 当時の自分が、奥底の琴線に触れていたときと同じ感覚、まさしくその瞬間と繋がる感覚です。

例えば、肉じゃがを食べた時に、「あっ、これだ!」と、昔の「母の味」が蘇り、その当時の気持ちとどんぴしゃな感覚に触れる。また、沈丁花の香りに昔、別れた時の場面、辛かった心が蘇ったり、懐かしさや当時の空気まで思い出す。そういう感覚に似ています。

あぁ…こういうことだったんだ…というような感じで、それに辿り着けると、漠然とわからないまま揺れていた感情というか、 済んでいない想いが分かるのです。

③感情を流す

さて、吐き出しと感じなおし、どちらも大切で必要な作業です。でもそれだけでは不十分。それらを通して分かった気持ち、繋がった感情を、更に「流してやる」のです。

「流してやる」というと、またそれをしなきゃと思う方もいらっしゃるかも知れませんね。ですが、過去の想いを分かってやることで、これまでずっと止まっていたその気持ちに変化がおきます。感情や感覚が流れ始めるのです。

不思議ですよ。その時の境地が蘇る体感で過去に繋がると、過去の済んでいない気持ちが堰を切ったように流れ始めるのです。これこそカウンセリングの極意とも云うべき体験でしょう。

過去を過去にするというのは、埋まっていなかったピースを埋め、ようやく、少しずつだけど意味のある思い出となれるために必要な、大事な意味のある作業です。

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42. 自分見つめに立ち塞がる自己否定の壁

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自分見つめに立ち塞がる自己否定の壁

当初、多くの方は、自分の状態や症状を、普通じゃない・恥ずかしいと認識しているので、治そう・克服しようとし、ある時点で行き詰まり、途方に暮れ絶望しています。

そんな中、自分を見つめろなんていう言葉は、どうにも怖くてたまらない。何故なら絶望している人にとっては、さらに反省しろ・頑張ってやれと言われるように感じてしまう。

これまでに嫌というほど味わってきた自分の劣意識を、更につきつけられる感じがして、更にダメな自分を実感してしまうからですね。

また上手く出来ない自分や、最後まで続かない自分にずっと嫌悪し、そういう自分を醜く汚いと思っているので、振り返るのは怖くて堪らない。

ずっと嫌ってきた自分が、やっぱり本当に救いようのないモンスターだったということが事実で、それを自分が受け入れなければならないと思えば思うほど、自分見つめは怖いと感じてしまうのですね。

あるのは自責の念…でもそれは自分を見つめることとは違うのですよ。

自分見つめの作業は、自分を変えたり評価するものではないので、頑張る必要も努力も要らないのですが、評価に敏感な方ほど自己否定感が強い傾向があるので、自分を見つめ始める当初では、そういう自分を卑下している自分、自己否定の壁が立ちはだかっていることに気づかされます。

さて、ここからどうやって進むのか?結論から言いますと、まるで自己否定の虜にでもなってしまったような自分像は、これまでの1人の世界で作り上げた虚像です。

中途半端・適当・雑・自分勝手…それら、人に許せても自分にはどうでしたか?自己否定はしてきたけど、その奥の心はご存知ないのではないですかね?

自分を見つめることでそれらが分かるのです。

………さて、ここからは少し事例を通して進めてみます………

例えば、みんなと仲良くしなさいと教わった人は、その教え通り誰とでも仲良くしようと試みるのですが、時には自分と意見が違う人や、自分と嗜好の違う人にも出会います。 この時点で、従順な人ほど自分を引っ込め、相手との距離を縮めようと頑張る。

更に、仲良く出来ない子は誰からも相手にされない、善い大人になれないなど、所謂、社会不適応とでも言われそうな価値観に怯えるほど、自分が相手に合わせる事で仲を保つようになります。

こうして無意識に慢性的な自己否定は強まってしまいます。

また逆に自分卑下があることで、自分が相手から利用されているのではないかと疑っても、その猜疑心を裁き抑える事で相手に尽くせる。

或いは興味の湧かない作業でも、自分の怠け根性がいけないのだと処罰すれば、自分の気持ちを感じず作業に向ける。

このように自分を裁きさえすれば、その関係が維持できるのです。

相手にイラついたりムカついたり憎んだり嫌ってしまう感情は押さえ込まれ、その度に自分を処罰し自分を変えようとします。 自分の反応を出して嫌われたくないし不適応者になりたくないので、自分を修正し頑張ります。

こうして自分を裁き卑下し、嫌ってしまうのが自己否定。これが自分見つめをスムーズにさせない最初の関門です。

自己否定の壁は、自分を裁き否定する事で自分の反応を押さえつけ、奥で感じている自分を隠す城壁でもあります。そしてその壁が厚くて強く自分を抑えられるほど、社会に適応できてると思い込めるような錯覚をもたらす。それが自己虐待をしているなどつゆ知らずに、です。

しかし、自分を否定して押さえつけてまでもそこに居る必要性を選択してしまうには訳もあり必然的に作られたものなので、ムリに取り壊そうとしても、勇気を振り絞っても対峙できません。

だからこそ、ここにじっくりと関わっていくことが、実はとても大事なことです。

自分を見つめるということは、自己否定の奥に入り、真意を探っていく作業です。 どう関わりたくて何を訴えたかったのか…

納得は真実を知ることでしか得られません。 他人に認められる生き方ではなく、主体性を回復し、自分が心から納得できる生き方をする為に自分を見つめるのです。

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41. 自分を見つめるということ

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自分を見つめるということ

カウンセリングの姿勢として先ず、自分を知ろうとすることが必要なんですが、そのための作業を「自分見つめ」という言い方をします。何故自分を見つめるのかというと、そうしていくことで本来の自分がちゃんとわかる。わかることで自分本来の視点を見つけられ或いは取り戻せ、その視点を意識することで自分主体に納得して生きられるようになるからです。

自分見つめには、今までの人生を振り返ることになるので、それなりの時間はかかります。 しかし、見つめる中で見えてくる自分の姿は、決してダメなものではありません。

その中にこそ自分の眼は息づいています。 その眼からくる視点を取り戻し、自分の視点で自分中心の人生を送る一歩が自分見つめです。

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